
《2005》地元企業の協力で常識を超えたスピードで整備が進む
犬飼代表の決断からわずか4カ月、急ピッチで建設が進み、2005年7月に仮オープンを迎えることができたのは、まさに奇跡的なスピードでした。
現在レッズランドのクラブハウスとして使用されている建物は、かつて東京農業大学の校舎として利用されていたもので、1階は食堂、2階は教室として使われていました。この建物を浦和レッズが買い取り、更衣室として改修を行いました。河川敷には新たな建物を建設できない制限の中で、仮設トイレのみが設置されることになりました。また、グラウンドのフェンスやポールは、クラブカラーであるレッドに塗り替えられ、次々と設置作業が進められました。急ピッチの整備が続く中フィールドは徐々に形を整え、クラブと地域の新たな拠点としての姿を現していきました。
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東京農大時代のグラウンド(2005年3月) | レッズカラーの赤のフェンスやポールを急ピッチで整備 |
《2005》オープニングイベント 川淵三郎初代チェアマンが涙した夢の実現
2005年7月17日、レッズランドはついに仮オープンを迎えました。オープニングセレモニーには、犬飼代表をはじめ、プロ野球のヤクルトスワローズ(当時)から池山隆寛氏(当時コーチ)、競輪界から中野浩一氏など、華やかなゲストが顔をそろえました。そして、Jリーグ初代チェアマンである川淵三郎氏が、日本代表の青いユニホームに身を包んで出席。
「Jリーグ百年構想の夢を、発足から10年という早さでいち早くレッズが実現してくれた。本当にありがとう」と目に涙を浮かべながら語りました。川淵氏が1960年代の初めに、日本代表選手として訪れた西ドイツで目にした「スポーツシューレ」は、森に囲まれた広大な敷地にさまざまなスポーツ施設を備え、トップアスリートのトレーニング拠点であると同時に、地域の人々が気軽にスポーツを楽しめる場でもありました。「日本でも、同じようにスポーツ施設を持つクラブをつくり人々の幸福に寄与したい」という思いが、Jリーグ設立の理念となります。ホームタウンを掲げ、地域と共に歩むクラブ文化はまさにこの精神から生まれたものでした。
しかし当時、Jリーグのクラブは自治体などの協力を得てトップチームの練習場を確保するのが精一杯で、育成組織が使用する施設すら不足しており、地域の人々が楽しめる施設を持つことなど、夢のまた夢とされていました。その「インポッシブル・ドリーム」を、当時Jリーグで優勝経験がない浦和レッズが実現したため、川淵氏が感激の言葉を口にしたのも、当然のことでした。
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オープニングイベントには多彩なゲストが立ち会う | 川淵三郎氏は60年代にドイツで見た施設に重なる風景に感激した |







