
《黎明期ー2004》Jリーグ「百年構想」を先駆者として体現できる拠点を模索
「Jリーグ百年構想〜スポーツで、もっと、幸せな国へ。」という理念はJリーグ創設の立役者である初代チェアマン・川淵三郎氏がドイツのスポーツ環境を視察した際に訪れた「スポーツシューレ」(地域スポーツ振興の拠点となっている複合機能施設)をモデルとして提唱しました。浦和レッズはその理念に共感し、Jリーグを牽引するクラブとして他に先駆けて具現化できないかと検討をスタートします。
2003年、Jリーグヤマザキナビスコカップ(現:YBCルヴァンカップ)で初めてタイトルを獲得し、勢いに乗ったクラブは、2004年3月に開催された「浦和レッズ シーズン2004を語る会」で当時の犬飼基昭代表がレッズランド構想を初めて披露しました。ちょうどその頃、クラブがサテライトチーム(当時)や育成組織(ユース、ジュニアユース)の練習場として借りていた東京農業大学の運動場(農大グラウンド)が賃貸借期限を迎え、(本校のある世田谷から遠く離れていたこともあり)大学側が土地の返却を検討しているという情報をクラブがキャッチします。
その運動場は、さいたま市桜区の河川敷の14万平方メートルの総合運動場で、天然芝のサッカー場3面、テニスコート11面、野球場3面が設営されていました。レッズが借りていたのはサッカー場3面のうちの2面でしたが、農大グラウンドがなくなると、育成組織やサテライトチームの練習場所に困ると話し合いが始められていました。同時に、地元の女子サッカーチームを引き継ぐ話も浮上していました。1980年に「本太レディース」として誕生したのち、「浦和レイナス」に引き継がれその後「さいたまレイナス」として地元浦和で25年の歴史を重ねてきたチームを支えてきたさいたま市と地元企業が、財政的にサポートが難しくなり、浦和レッズに引き継いでもらえないかと打診がありました。“サッカーのまち”浦和に有力な女子選手が沢山いるのに、都内のクラブに流出してしまっていることも背景にありました。
|
|
ドイツのシューレを理想とする百年構想 | 浦和レッズシーズン2004を語る会 |
《2004-2005》クラブを取り巻く厳しい状況の中でレッズランドのオープンを決断
一方、浦和レッズの責任企業である当時の三菱自動車は、リコール問題の余波で厳しい経営状況に置かれていました。新しい投資を行うことにはリスクが伴うため、社内では白熱した議論が重ねられました。そのような中、浦和レッズとして決め手となったのは好条件の契約を引き継げること、練習場所の確保が急務であったこと、そして地元企業からの協力など、さまざまな好機が重なったことでした。こうした背景を受け、当時の犬飼代表がレッズランドの開設と浦和レッズレディースの発足を決断します。
借地契約の引き継ぎは、関係者全員にとって「三方よし」と言えるものでした。東京農業大学にとっては契約を終了するにあたって現状復帰する費用が不要となり、数十人の地権者の皆さまには引き続き土地の貸借料が入る、そして浦和レッズにとっても、これまでのサッカー場2面とほぼ変わらない賃借料で、地域の人々のためのスポーツ施設を作るという理念を実現できる、まさに理想的な形でした。しかし、その後の交渉過程では、いくつかの高いハードルに直面しました。敷地を保有する地権者は85名にのぼり、高齢の方も多かったため、全員との直接交渉は困難でした。
そんな中、偶然にも地権者の中に当時の与野市長がいたことで、5名の代表者を選出して交渉を進めることを提案。市長自身が代表団の中心となって尽力していただいたことで、大きく話が前進しました。





